2013年3月11日月曜日

おもいだす、3.11

どれだけの情報を得ても、
間接的に支援に参加しても、
ぜんぜん自分の事にできていない気がしてなりません。

3.11。

東日本大震災から、
今日で3年目に突入しましたね。

2年前の今日は、後輩と2人で浦和に打ち合わせに行ってて、
その瞬間はビル最上階。
会議用の机が流れ、ドアを開けると向かいの商店街のビルが豆腐みたいに揺れていた。

避難すると地上には色んなお店から出てきた人たち。

担当者さんとトイレに戻り、個室を出ようとした瞬間に余震。
「○○さぁーん!大丈夫ですかー!!」と
下着を上げながら叫んだのを覚えてます。(わぁ・・・)

浦和駅には案の定入れなくて、
乗客も隣の駅から線路伝いにこちらへ歩いて来てるようでした。







自分は、「おっきな地震がきたけど、これから先、どうなるんだろう」
とぼんやり考えながら浦和のPARCOのヴィトンの横にへたり込んでいました。
合間、自分のクライアントに安否メールとかしながら。

隣の後輩は、「日本の15大財閥」的な本を一瞬で読み終えてたなぁ。

交通以外は、なんてこたぁない浦和でしたが、
暗くなるにつれ「どこで過ごそうか」と不安になる。

松屋でなんとなくご飯のありがたみを感じ、
フラフラと歩き、真っ暗になってからは居酒屋へ避難した。

会社からの連絡は携帯が不通でまともに来なくて、
みんながSL広場にいる事だけがわかった。
どうやら自分らだけがこんなに遠くにいる事とかも。

とりあえず明るい気持ちになりたくて、
哀しいニュースが流れるNHKをちょっと無視しながら、
バカみたいに陽気な、派手な色のお酒を飲んだ気がします。

12時をすぎ居酒屋を出されてから、
近くの小学校へ行ける事を知り、駆け込む。

生活科室へ通されると、
ストーブに、テレビに、毛布にくるまったおっさんとおばちゃん。
いわゆる一時避難所。


こんなとこに自分が来てるという状況がよくわからなかったけど、ひとまず眠る。


深夜、起きたらテレビの画面が真っ赤だった。
気仙沼が燃えてた。

そこらへんもほんと嘘かまことか、
受ける情報が断片的すぎてわからなかったんだと思う。



翌朝、10時くらいにJRが動き出してから、ゆるゆると都内へ。
オフィスは書類が散乱していました。
帰還!

非常時。

結局自宅についたのも午後2時を過ぎていて、スーパーにはすでに買い占めの予兆めいたものが。

自分はそこからは一歩も家を出ず、布団にくるまってUstreamやテレビを見続けていました。





















なんて、自分の事だから鮮明に覚えていられるんです。




自分の事だから。




そしたら、被災地に対してはどうなんよと。
足を運んだ事もなければ、被災した方のお話をきいた事もない。
なんとなく、原発も復興も支援も、
他人事にしてしまっているような気がしてならない。


東京でもそうですが、
関西や地元に帰ったら
特に思いますね。
他人事というか、
他人事にすらなってない。
少なくとも、言葉や行動に出ないから…


そこらへんも、

震災を経て変わってしまったのかな。

地震を体験した人とそうでない人。

身内が亡くなった人とそうでない人。

原発の恐怖に怯えるひととそうでない人。


いろんな境界線ができた。



自分の事は鮮明に覚えていられる。

自分の事ならどこまでも深く考えられる。
行動もできる。


自分が、この状況に対してできる事。
何か考えられないかな?

二年前、断念したとある活動。
もう一度、やってみようかな。。!

いまの自分ならできそうな気がしてます。

形になるまで…
乞うご期待。